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1900年(明治33年)、ヴォーリズはコロラド大学に入学する。入学と同時にヴォーリズは学生YMCAの奉仕に熱心に取り組んでゆく。だが、この時点でのヴォーリズは建築家になることを夢見ており、海外へのキリスト教伝道の必要は認めながらも、自らは祈りと献金による支援を行うつもりでいた。


しかし、彼の運命を変える出来事に遭遇する。1902年(明治35年)にヴォーリズはカナダのトロント市マッセイホールを会場とした「海外伝道学生奉仕団」(Student Volunteer Movement for Foreign Mission)の第4回世界大会(カナダ、アメリカから3,000人ほどが参加)にコロラド大学YMCA代表(コロラド州から1名)として出席した。


熱気あふれる大会も終わりに近づいた時、講師団の中から1人の婦人が講壇に立ち「キリストの苦しみに与る」と題して語りはじめた。彼女はイギリスの「中国内陸伝道団」の創始者として有名なハドソン・テイラーの息子ハワード・テイラー医療宣教師の夫人であった。


この時、ヴォーリズはこれまでにない霊的な体験を経験する。海外伝道に献身することを訴えている講師の顔が、ある瞬間「キリストの顔」に変わり、キリストご自身が「お前はどうするつもりなのか?」と尋ねられている声を聴いたのである。


ヴォーリズはこの霊的経験が一時的な情熱の業であることを怖れ、そのことを祈り、思いめぐらせながら大学に戻ったが、自分の決意が日増しに強くなっていくことを自覚し、ニューヨークの海外伝道学生奉仕団本部へ海外伝道への決心を伝える。

ヴォーリズはこの決心の後、大学の課程を哲学科に変更して海外伝道への準備に取りかかった。海外伝道といっても、ヴォーリズの理想は宣教師や牧師になることではなく、種々な職業を通じてキリスト教的生活を実践するYMCA的な生き方にあった。


大学を卒業した1904年(明治37年)の末に日本の滋賀県の商業学校が英語の教師を求めている知らせを受け、見ず知らずの地に独り赴いたのである

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